26
病院の廊下に、ぎこちない空気が漂っていた。
リプリー警部補は、まるで敵地に乗り込むかのような険しい表情で歩みを進めていた。
彼の後ろを、若き研究助手のケンジが慌てて追いかける。
病院という場所は、その人の心のあり方を映す鏡のようなものだ。
ある者にとっては弱者の巣窟、またある者にとっては人の温もりを感じる場所。どちらも、ある意味では正解かもしれない。
「クソッ、ケンジ、なんで俺にそんな講釈を垂れるんだ」
「いや、悪気はないよ。大学の友達がそんなこと言ってただけだ」
「確かに俺にはただの弱者の溜まり場にしか見えねぇよ」
「やっぱり、そう見えるんですか」
「俺はその程度の人間だ。それより急げ、学生」
ケンジは病院の廊下を駆け足で追った。
二人がオットーの部屋にたどり着くと、看護師が待ち構えていた。
「お会いすることはできません。特にあなたとは」
リプリーは不満げに看護師を見つめ、皮肉な笑みを浮かべた。
「何か用事があるなら、この方を通すほうが良さそうですね」
看護婦は、ケンジを指した。
「それは出来ない。こいつは余計にオットーの気を狂わせる。あんたらと同類のお優しいお方だ。オットーには今、俺が必要なんだ」
「なぜなんです。言ってもらいましょう」
看護婦の言葉に、リプリーはゆっくりと立ち上がり、彼女の顔を覗き込んだ。
「何を言うんだ?」
「彼にあなたが必要な理由よ」
「その前に、自分の名を言え」
看護師は、自分の胸のネームプレートを指差した。
「あなたには名札を読むということが、理解出来ないの」
「そいつは気がつかなかった。ワカチタさんというのか」
「タチカワというのよ。あんたはどうしてそうひねくれているの。普通、字は左から読むのよ」
リプリーは、ニヤリと笑った。
看護師はため息をつき、呆れた顔をした。
「あなた、馬鹿ね」
看護師の言葉に、リプリーは冷笑した。コスメで何層ものコーティングを施し若作りしたその顔は、まるで仮面のようだった。
看護師ってのはそんなにお洒落して患者に接するのか?
リプリーは嘲笑を隠そうとせず、看護師もその表情を見逃さなかった。
「何がおかしいの?」
リプリーは表情を引き締め、ケンジに静かに話しかけた。
「こんなことにならないように、お前に世話を頼んだ。なぜだか、分かるか」
ケンジは神妙な顔をして首を傾げた。リプリーは続けた。
「くそっ、あのハエのことを知っているのは、お前のところの所長だけなんだ。前市長の失策で発生した、異常に肥大したハエの撲滅に携わった数少ない人物なんだぞ。単なる色恋ごとで、あの貴重な存在が、頭がおかしくなってるなんて、いったい誰が責任を取るつもりだ」
リプリーの言葉に、看護師の顔が青ざめた。
彼女は、ハエの撲滅についてなんて、何も知らなかった。
「この字を何と読む?」
リプリーは、ドアの面会謝絶と書かれた札を指差した。
「ツラを会わせるのをよせ、と言う意味だ」
「それが何なの?」
「その程度のツラに耐えられるのなら、俺だって面会できるはずだ」
看護師は我慢の限界が来たらしく、無言で睨みつけ、ツカツカと廊下を去っていった。
リプリーとケンジは、病室に入ると、しばらくベッドに横たわるオットーの姿を見つめた。
オットーは、スヌーピーの刺繍が入ったピンクのパジャマとガウンを着ていた。
その清潔さが、逆に痛々しかった。彼はやつれていて、虚空を見つめていた。
「タバコを吸わないか?あんた」
リプリーは、ポケットからタバコを取り出し、オットーに差し出した。
オットーは、ゆっくりとタバコを受け取り、差し出されたライターで火をつけた。
視界を煙で燻らせながら、突然笑い出したかと思うと、急に泣き始めた。
「ハエごときに怯えていたんだよ…夜中にうなされて…」
リプリーは静かに聞いていた。
「オットー、あんたはまともだよ。俺も昨日、そのハエと対面してきた」
「やっぱり、いたか…」
「いたさ」
オットーは小さく頷き、深く息をついた。
小さな膿盆を灰皿代わりにしながら、リプリーは続けた。
「疲れただろう。あんたの弟は、列車事故による螺死だったよな。五体がバラバラになったんだよな。俺の初任事件だったから、よく覚えている。交通事故で死んだ、あんたの奥さんの時も俺はあんたの泣き顔を見た。あんたはその度に周りの慰めを頑なに牽制してきた。勘違いしなさんな、俺は慰めるつもりなんかないぜ。あんたの力が必要なんで、鼓舞しているんだ」
リプリーの言葉に、オットーは顔をゆがめた。
そして、また泣き出した。
「笑わんでくれ。ハエごときに怯えていたんだよ。襲われた時のことを思い出して、夜中うめいていたんだ。そんな時、あの看護婦がわたしの話をよく聞いてくれた。あの人は良い人だ」
オットーの言葉に、リプリーは複雑な表情を浮かべた。彼は、オットーの心の傷を深く理解していた。
しばらく嗚咽が続いた後、オットーは顔を上げた。
「ただちに退院手続きを取る」
「身体はいいのか?」
「大丈夫だ。これ以上、ここにいても無駄だ。手続きに立ち会ってくれんか?」
「いいとも」
リプリーはオットーの肩を叩きながら、ケンジの方をちらりと見た。
ケンジは思った。
どうしてリプリーは、男にはこんなに優しいのに、女性にはああなのか…。
つづく
最後までお読み頂きありがとうございます。この作品はランキングに参加しています。よろしければクリックをお願いします。
Follow @hayarin225240